山行・旅

自然環境と共に生きる アイヌ文化を訪ねて    平成26年9月30日

 ここは北海道苫小牧市、樽前山麓に位置する錦大沼。支笏湖を見下ろす名峰樽前山の南側流域には、今もこうした自然の湖沼や天然のままの河川が散在し、豊かな森に守られながら、太古から続く生き生きとした大地の息吹を感じさせてくれます。

 写真右奥に見える湖畔の浅瀬には、豊かな葦(アシ)が広がります。
 かつての日本、川も山も本来の命であふれていた時代、こうした葦原は日本中いたるところの湿地や川沿いに広大に広がっていたことでしょう。
 日本書紀の記述によると、日本国のことをかつて、葦原国(あしはらのくに)、または豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)と称されていたことが分かります。
 その意味するところはすなわち、湖畔や川岸に豊かな葦が生い茂り、その中に五穀豊穰の沃土が広がる自然の恵み豊かで美しい国土を表しています。
 はるか昔、倭人(大和民族)の祖先が海を渡ってこの国にたどり着き、その大地の豊かさ、美しさにどれほど感銘を受けたことか、葦原国という名前の響きと共に想像させられます。

 水辺の葦は、水を浄化し、下流域の住民に至るまで清浄な生活用水を提供し、さらには魚や水鳥をはじめ豊かな生き物の住処となり、そしてそれはかつての屋根葺きなどの材料として、日本全国でごく普通に用いられてきました。
 そうした、かつての日本の代名詞に等しい、豊かな自然とそれを表す豊かな葦原も、今ではごくわずかとなりましたが、この北海道の大地で命溢れる太古の日本を見つけたような、そんな雄大な想いに駆られます。

 湖畔にどこまでも広がる自然林。
 ミズナラ、ホオノキ、カツラ、シラカバ、ウダイカンバ、オヒョウニレ、ドロノキ、ハンノキ、ヤマグリ、カエデ、ナナカマド・・・。太平洋に近い低地ゆえに、北の大地にしてはやや温暖なこの周辺では、冷温帯性の落葉広葉樹林が生き生きと、美しく恵み豊かな様相を見せています。

 そしてここは苫小牧の隣町、白老町のポロト湖。カツラの木をくり抜いて作られた丸木船が、この地で長い間営まれてきたかつてのアイヌの人たちの暮らしぶりがはるかに偲ばれます。
 このポロト湖周辺には昔からアイヌの人たちの集落があり、今はアイヌ文化を伝える博物館として、当時の暮らしを伝えます。
 アイヌの丸木舟は、水辺の山中によく生育し、材が軽くて柔らかく加工しやすいカツラの木が、主な材料として用いられてきました。

 

 丸い穴は道東南部の森に見られるクマゲラの食痕です。東北以北の森の中に住む大型のキツツキ、クマゲラは、アイヌ語で「チップタッチカップカムイ」と言います。その意味は、「舟を掘る神」というもので、クマゲラは丸木舟のように楕円形に穴をあけることから、こうした名前が付けられたのでしょう。
 アイヌの世界では、身近な自然界の様々な生き物を神(カムイ)の化身した姿と見て、それぞれの役割を持ってこの地上世界、人間社会に存在すると考えてきました。
 こうした名前からも、とてもユーモラスな神との関係が感じられ、人も動物も植物も同じ地上の生き物として一つの大地に共に暮らす、そんなアイヌの自然観が感じられます。

 今回、私が所属する日本茅葺き文化協会(代表理事 安藤邦廣筑波大学名誉教授)主催の研修会で、アイヌの里を訪ねるべく、北の大地を訪れました。

 チセと呼ばれるかつてのアイヌ民族の住居は、屋根も壁も葦や茅などの、当時身近にあった葦原や萱原の植物を用い、全てが身近な自然の中から材料を得て作られてきました。
 水辺の豊富な白老のチセでは、主に葦が用いられてきたようです。

 むろん、そうした生活資材は地域の自然環境によって異なります。
 壁や屋根の材料としては、アシやススキ、ササと言った草類や、カバ、ドドマツ、キハダといった木の樹皮など、その土地の自然環境の下、採取が容易な素材が用いられてきました。

 旭川市にある私設のアイヌ記念館に復原された、クマザサの葉で作られたチセ。その美しさと空気感に息をのみます。

 壁も屋根もすべてクマザサで丁寧につくられて、まるで生き物のようです。

 可愛らしい外観のチセの窓。チセには決まって、南側に2つ、東側に1つと、窓が3つあります。
 主に東側の窓はカムイ(アイヌ語で神)の出入りする窓で、この窓の外から家の中を覗き込んではいけないという決まりごとがあります。
 そして南側の2つの窓は、一つは編み物などの作業のための明り採りのための窓、もう一つは台所の水を外に捨てるための窓と言います。
 窓の外にはよしずがかけられただけの、簡素で美しく、とても可愛らしく感じます。

 極寒の北国において、特にこうした植物の素材を用いることで壁の内部に空気の層ができることによる断熱効果によって、家の中は暖かく保たれてきたのです。

 チセの入り口は、アイヌ語でセムと呼ばれる風防室の玄関兼物置から入ります。

 チセの骨組みは至って簡素で、近世以前にはこうした細い材で組まれてきました。柱の上に梁・桁を回し、その上に三脚構造の丸太組みを家の長辺方向に2か所組み、その上部に棟木をかけて、そこから扇状に垂木を降ろします。垂木は安定するよう、三脚構造の中段に母屋を廻します。この垂木に「サキリ」と呼ばれる細い桟木を横に通して、その上に笹などの屋根材を結わえつけてゆくのです。

 壁も同様、細かなサキリ(横に通した桟木)に笹を5本ずつ束ねて、綿密に結わえつけているのは、極寒の気候に耐えうるよう、万全の断熱を期したものなのでしょう。
 そして柱は、北の山中の主要樹種、ミズナラを用いて土中埋め込みの掘っ立て構造となっています。この構造で、30年程度は十分に耐えうると言います。

 かつてのアイヌの住居は形として残っておらず、現在あるものはすべて復原されたものなのですが、住居が跡形もなく残らない理由はこの、掘っ立て構造ゆえなのでしょう。

 この掘っ立て構造について、今回の旅に同行してくださった日本民家研究の第一人者、安藤邦廣名誉教授は以下の通り着眼され、話されました。

 掘っ立て構造と言えば、倭国(アイヌ文化に対して、ここではあえて日本と言わず、倭国と言います)においても、日本の代表的な神宮、伊勢神宮も掘っ立て構造なのです。
 建築の常識では、掘っ立て構造は未開時代のレベルの低い建築構造と思われがちですが、日本の木造建築技術の粋、伊勢神宮が掘っ立て構造というのはどういうことでしょう。
 
 その答えをこの、アイヌの住まいが明かしてくれました。

 このアイヌ記念館のオーナーである生粋のアイヌ人、川村兼一さんがこう話されました。

「アイヌでは、家は女性のものと決まっている。その家の旦那が亡くなったら、壁をくり抜いて外に出して弔い、そして天国から戻ってこれないように壁の穴を塞いでしまう。死んだ後は神の世界で生前とと同じように家を建て、狩りをして暮らす。家を建てるのは男の仕事だから、死んだ後は男はまた天国で家を建てる。
 しかし、その家の奥さんが死んだら、家財道具ごと家を燃やして神の世界に送る。女が死んだあと、神の世界に行き、そこに家がないと困るから送る。もともと家は女のものだから、跡形なくすべて送ってしまい、天国で困らないようにしてあげる。」

 アイヌの家送りは、近代には支配者である明治国家によって禁止されましたが、それまでのはるか長い間、その家の主の女性が亡くなると、家も家財道具もすべて燃やして神の国に送り届けてきたのです。
 掘っ立て構造だからこそ、すべてを送ることができるわけで、基礎があればそれは残ってしまいます。人間の体が死んだら灰になってすべて土に還るように、家も跡形もなく自然に返すために、掘っ立て構造が持続され、そしてまた、人の半生程度の期限で自然に期してゆくにはこの構造で充分だったとも言えるでしょう。

 こうした風習が、所有に対する度を越えた人間の欲望が化け物のように際限なく拡大して、自然との関係、神との関係を壊してしまうことがないよう、暗黙の自制に繋がってきたことは言うまでもありません。

 その土地で自給的かつ持続的に暮らしてきて、そして消えてしまった先住民族の暮らし方に現代のわれわれが学まねばならない点は、こうした精神性や考え方にあります。

 身近な自然や神々と共に生きてきた先住民族の無欲で美しい精神性に心打たれます。

 伊勢神宮の掘っ立て構造も、20年ごとの式年遷宮の際に古いすべてを自然に返して新しくするという意味ではこの構造しかなく、見方を変えれば自然と人とが輪廻しながらいのちのやり取りをするなかで近代にいたるまで守られてきた掘っ立て構造のチセの文化のとてつもない気高さに胸が震えます。

 チセの内部、真ん中には大きな囲炉裏に常時薪がくべられて、独特の火棚にサケやマスなどを吊るして燻製にします。
 内部に床はなく、土間の上に茅や、ガマの葉を編み込んだゴザを幾枚にも敷いて過ごしたと言います。

 「寒いのではないか」と思われる方が多いと思いますが、かつてのチセでは土間の表面温度は外が氷点下30度の極寒の時期でもなんと摂氏2度を下回らなかったとの研究報告があります。(宇佐美智和子 研究報告)
 アイヌのチセでは現代住宅においても最先端のパッシブ技術である、地熱の有効利用がなされていたのです。
 土間の表面を蓆で覆って風にさらされて熱が奪われにくくしておき、そして年中、ちょろちょろと囲炉裏をともし続けるのです。それによって地盤に蓄熱される上、地下からの温熱も土間に伝えて冬でも温かな住まいの環境を維持していたというから驚きです。
 実際に冬のチセで暮らしが営まれていた際の体感温度は20度程度だったと、宇佐美女史が観測によって明らかにしています。
 
 外部からのエネルギーを用いずとも快適で、そしてその土地の自然環境の中ですべての素材を容易に集めて住まいをつくり、家としての役目を終えたら大地に還す。今の建築技術が及びもつかない、驚くほどの最先端をゆく暮らしがはるか昔から、アイヌのチセにあったのです。

 今の世界、先進国とか、発展途上とか、後進国とか、そんな一元的で、未来の生存基盤たる自然環境の搾取と破壊の上でしか決して成り立たない、ナンセンスな価値基準が意味をなさなくなる時代が近い将来、必ず訪れることでしょう。その時を迎えることなく、今後も人類が持続してゆくためには、自然と折り合いをつけて生きてきた先住民族の暮らし方に学ぶ必要があることでしょう。

 「原始的」などと、悲惨な差別を受けてその誇り高い文化を破壊されてしまったアイヌ民族の暮らし方や世界観は途方もなく素晴らしく、持続的で、人間本来のあるべき姿を示しているように感じます。

 囲炉裏の脇には、火の神様を祭る、イナウと呼ばれる木を削って作られた木幣があります。狩りに出る際、このイナウに祈りをささげて、豊漁を祈ります。そして、例えばサケが採れた際には、一番おいしい部分であるハラミを火にくべて、火の神様に捧げるのです。
 反面、祈りをささげたにもかかわらず、不漁であった日には、「なぜ祈りを聞いてくれないのだ。その怠慢を改めねばお供えしないぞ。」と、厳しい口調で神様を脅すこともあると言います。あまりにも人間的でユーモラスな宗教観ではないでしょうか。

 ともかくも、サケが採れたときは、ハラミの部分を神様に捧げる他、内臓は外の木の枝に引っ掛けてカラスや獣たちに分け与え、その残りが人間の取り分となると言います。
(写真;白老ポロトコタンのチセ)

 囲炉裏でいぶして保存食とし、冬の食料となります。鮭はアイヌの暮らしに欠かすことのできない命の糧で、アイヌ語で「神の魚」を意味するカムイチェプと呼ばれ、その収穫の際にもサケの魂を神の国に送る儀式を行い、そして感謝をこめて命の肉体をいただくのです。(写真;白老ポロトコタンのチセ)

 神の国から役目を与えられて毎年たくさんのサケが川を遡上します。「来年もまた帰ってきてくれ」との祈りをささげて、収奪し過ぎず、生きる上で必要な分を収穫します。
 ちなみに、アイヌ社会では川は山から流れるものではなく、神の恵みを受けて海から人の世界へと登ってくるものと考えます。それはまるでサケがその身をさげて遡上してくるようです。
 アイヌにとって川も神聖な神の化身であり、そこで洗濯したり小便をすることは厳しく戒められてきたのです。

 話はチセの土間に戻ります。これは川岸や湿地に生育するガマを編み込んで作ったゴザで、これがチセの土間に敷かれます。
 断熱に優れて温かく、時にその中にガマの穂をほぐした綿を入れることもあったようです。

 

 これが収穫して乾燥させたガマの葉です。

 これを、オヒョウニレという、北海道に自生するニレ科の高木の、内皮の繊維を編み込んた糸で紡ぎ、優れた断熱性のある美しいござとなり、暮らしを快適にしてきたのです。

 オヒョウニレの繊維から糸をつむぐアイヌの女性。1枚のガマのゴザを作るのに用いる糸を紡ぐのに3週間以上かかると言います。

 仕上がったオヒョウニレの糸。ゴザの他、衣服や家屋における茅の結束など、アイヌの暮らしの中で欠かせないものとして様々用いられてきました。

 紡ぐ前のオヒョウニレの繊維。

 オヒョウニレの樹皮。皮をむきやすい5月から6月ごろに収穫し、そして繊維として使える内側の皮を用います。
 すべてはこうしたその場の森の恵みから、生活の糧を得てきたのです。

アイヌの食糧庫。ここに常時、平均して2年分の食糧が各自備蓄されていたと言います。

 そしてこれは、小熊の飼育用の柵です。
 有名な、「イオマンテ」と呼ばれるアイヌのクマの霊送りについては、耳にしたことがおありの方も多いことと思います。
 アイヌの人々にとって、全ての生き物は神の化身と考えますが、とりわけクマとシマフクロウは最も位の高い重要な神として丁重に扱われました。
 狩猟の際に母熊が小熊を連れていた際、その小熊を殺すことなく、この飼育用の檻で1年~2年間程度大切に飼育し、そしてクマの霊送りの際に、その魂を神の世界に送りかえすのです。
 その際、クマに様々なお供えと祈りをささげ、また地上に戻ってきてくれるよう、たくさんの土産を供えて神の国に還すのです。
 
 神の国に還ったクマは、土産を仲間に分けて、「人間にこんなにふるまってもらった」と、さかんに土産話を披露するのです。それを聞いた仲間のクマ神たちは、自分もその恩恵にあずかろうと翌年、たくさんのクマ神が人間世界を訪れて、賓客として迎え入れられることになるのです。
 それは現実的には、アイヌの人たちにとってたくさんの獲物が獲得できるということになるのです。
 このクマの霊送りは、人知を超える自然界を象徴する神と人との相互扶助的な関係が背景に感じられ、これが生きとし生けるものに感謝して分をわきまえて度を越さず、自然界において未来永劫にわたって共存して生きる、アイヌ文化の象徴として、語り伝えられてきました。

 2008年、先住民族サミットが開催された二風谷アイヌ集落を最後に、3日間の旅を終えて帰途に就きます。
 
 ここは今、日本初のアイヌ初の国会議員となった故萱野茂氏によって開設されたアイヌ文化資料館です。
萱野茂氏は、「日本にも大和民族以外の民族がいることを知ってほしい」と、国会の委員会において史上初のアイヌ語による質問を行ったことでも知られます。

 萱野氏は、裁判の末に、アイヌ民族をこの二風谷の地から強制的に追放した国によるダム建設を違法とし、アイヌ民族を先住民族として認める判決を勝ち取ったのです。
 
 このことは、少数民族に対する差別や民族の文化、生きる権利まで奪われてきた世界各地の先住民族にとって、大きな希望の光となりました。

 世界中の地域に、その土地の自然環境の中で自然を畏れ敬い、大地を崇め、感謝と節度を決して失うことなく、その土地の自然環境が支えられる範囲で分を超えずに暮らしてきた、先住民族がいます。
 収奪し過ぎれば、そこでの未来の暮らしはたちいかなくなります。そこに自然を神として人の分をわきまえる戒律や風習が生まれ、守られてきました。
 彼らの暮らしは敬虔で、豊かで、そして知恵にあふれたものでした。

 アイヌの暮らしと精神性、そしてその暮らしも人権も踏みにじられ続けた近世以降の彼らの境遇を想う時、国家とはなんだろう、経済とはなんだろう、強く考えさせられます。
 自給的な暮らしの豊かさは国家や権力者の豊かさに結びつかず、それゆえに世界中で自然と共に生きてきた先住民族の権利も暮らし方も迫害されて奪われ、同化を強いられ、貨幣経済に巻き込まれ、そして崩れていきました。

 アイヌ民族が近代以降、その命の糧というべき自給的な大切なサケ漁をも禁じられたのと同じく、熱帯アフリカや東南アジアの先住民たちも、自給的な暮らしを奪われて、プランテーションによる、商品価値のある単一作物の効率的な生産を強いられ、その文化も神も、自給的で持続的な生き方を失いました。

 人は大地から離れることで命の本質を見失い、そして独善的に歯止めを失っていきます。生きるということ、人間であることの本質たる知恵も失います。
 すべての欲望は歯止めを持たねばなりません。それを失ったとき、気付いた時にはすでに人類は未来永劫の生きる基盤を失ってしまっていることでしょう。
 その土地の自然と共に分を超えず、動植物の命に感謝して暮らしてきた、先住民族の生き方や精神性に、私たちは再び学び、そして原点に立ち返らねばなりません。

 先住民族に対する長年の激しい差別を想う時、最近のヘイトスピーチに見られる下劣な精神性、国連の勧告を受けてもいまだ本気で差別に対処しようとしないばかりか、それを利用する下劣な政権、下劣な政界財界指導者たち、そしてそれを生み出す日本社会に、どうにもならない情けなさ悲しさを感じます。

 これからの社会、未来のため、未来の子供たちのため、そして生きとし生けるものたちのため、課せられた役割をしっかりと果していきたいと思います。

 素晴らしい研修会を企画くださった日本茅葺き文化協会役員の皆様、そして親切にいろいろと教えてくださったアイヌの皆様、本当にありがとうございました。
 
 

株式会社高田造園設計事務所様

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