山行・旅

南紀の旅 今昔考その1 紀伊の参詣道と周辺  平成28年1月10日

 ここは熊野古道中辺道、野中の一方杉と呼ばれる巨杉群。

 元旦早々から断続的に紀伊の霊場とその周辺を踏査し続けて最終日の1月8日、南紀の気候風土が生みだした知の巨人、南方熊楠が全霊を投じて守った、この森にたどり着きました。

 南方熊楠は粘菌学、生物学、民俗学、博物学研究の日本の草分けとして知られますが、本来、彼の人物、思想、見識は、そういった分類された学問領域の範囲に収まるものではないのでしょう。


 
 南方熊楠の生きた時代には、44本あったというこの地の巨杉も、今はこの8本のみとなりながらも、今も深い霊性を持って語りかけてくるようです。
 元旦からの一週間余りの間、南紀を巡る中で、この地域一帯の大規模な環境劣化と壊滅的なまでの破壊を見て、悲嘆に暮れていた我が心に浸みわたるものあまりに多く、この神域に入り、木々を見上げて涙がこみ上げていつまでも止まらなくなるのです。

 今、この旅を振り返る時、あの時の涙は一体何の涙だろうかと思うにつけて、不思議に澄んだ感覚に包まれます。
 豊かな南紀の自然の著しい破壊を一週間も追い続けて荒みかけた心を、この木々は間違いなく癒してくれたのです。そしてその癒しは、とても静かで、悲しげで、そして大きく温かく、人間としての贖罪をも受け止めてくれる、そんな、いのちのぬくもりとも言うべきでしょうか。

 とにかく、そんな不思議な感覚を表現するには、僕の拙い言葉でははるかに足りないのです。

 そして、この森の霊気を愛し、自らの研究人生も私財も、そして家族の暮らしをも犠牲にし、御一時は投獄されてまで、熊野の森を守ろうとした南方熊楠への感謝の想いもまた、この木々たちから確かに伝わります。いえ、熊楠自身の魂がもうすでにこの木々と一体となったのかもしれません。
 この森の巨杉群も、神社合祀の荒波の中で伐採されるところを、合祀に強く反対する熊楠の並々ならぬ熱意によってかろうじて伐られずに守られたのでした。

 南方熊楠が多大なエネルギーを投じて反対した、神社合祀(明治末期から始まった、いわば神社の統廃合、貴重な森と史跡を数多く有していた和歌山三重では、実に8割以上の神社とその鎮守の森がこの時期に消滅した)、熊楠が危惧したのは、合祀によって多くの神社がなくなる結果、地域を黙々と守り続けてきた古来からの鎮守の森が伐採され尽くすことへの危機意識だったのです。
 伐採によって生態系のバランスが崩れ、それが植物の生育のみならず、地域環境の劣化を招き、人の暮らしや人心にも取り返すことのできない影響を及ぼし、様々な問題が派生してゆく、そのことに対して熊楠は座視することはできなかったのでした。

 粘菌研究を通して熊楠は、草木菌類等、生きとし生けるものたちの密接なつながりに気付き感動し、「エコロジー」という思想、あるいは学問分野を日本で初めて、実践を持って切り開いていったと言えるでしょう。

 南方熊楠はこの老樹保存を訴える書簡の中で、図を付けて下記のように記述しています。

 「図の如く、老樹生えたる上の小雑木(*下草灌木の類)など、少しにても伐り候はば、五年を経ずして老杉が葉の色変わり出るものに候。」  (明治44年 野中瀬弘男宛書簡)

 つまり、こういうことです。

 「単にこの老樹だけ残せばよいというものではない。この木々はこの森の一木一草含むすべての生き物と共に、相互密接に関係し合いながら息づいている。だから、例えばこの木の根元に生えたる小さな雑木下草をわずかでも切り払ってしまえば、あっという間に精気をなくし、5年もたたずに葉の色が黄ばんでゆくものが必ず出てくるであろう。」

 この時代において、自然界の営みを透徹した驚きの見識というべきでしょう。

 人は、木々や自然と日頃接しているから、あるいは長年木々や植物を相手に仕事してきたからと言って、それだけで自然や木々のことを知っているということでは決してないのです。
 日々の精進の中で本当の智慧を獲得していけるかいけないか、その境目とは、心の在り様に依るのでしょう。
 純粋に心開いて大地・自然環境と寄り添い、愛し、感じ、包まれ、感動し、畏敬し、そして自分の生き方や精神が変えられてしまうほどまで思い続けて初めて、大地の息吹との一体感が生じ、そこに様々な智慧が、心の奥から泉の如く滾々と湧きおこるものなのでしょう。

 南方熊楠という智慧の巨人は、私にとってどれほど尊敬してもしつくせない、そんな人物だったのです。

 今、樹齢400年以上のこの一方杉はわずかに8本を残すのみとなりました。
 それはまさに、南方熊楠が予言したとおり、この場所、そして貴重とされたこの木々だけを、周囲のいきもの環境と切り離して「丁重に」保存しようとする、環境全体の繋がりをおろそかにしてきた近年の保存の在り方に対して、それが永遠の過ちであるということが、ここから発信され続けているのです。

 過ちは、その理由とプロセスを明確にして、社会において正していかないといけません。
 1200年以上も続いてきた、自然環境と共に息づいてきたこの地の暮らし方や祈りの智慧を、その本質の部分から次世代に繋いでゆくことが、今を生きるものの大切な務めであり、責任であると感じます。そしてそれは、未来永劫、人が生きてゆくためのいのちの基盤であり魂の基盤であるのです。

 温暖で雨量も多く、地層断層にも恵まれた南紀は、山また山と続く古来からの霊場で、吉野から熊野にいたる大峰山中には今なお、樹齢数百年、数千年という巨木が辛うじて残るところがあります。
 しかしながら、私の感じるところ、この継桜王子の巨杉群ほど、衰えたとはいえ、かろうじて霊気を供えているところはほとんどありません。
 それはすなわち、この山域全体の自然環境の著しい衰退劣化を現わしていると言えるでしょう。
 かつてこの山域は蘇生の地として日本あけぼのの時代から、都からそして遠方から、心を洗い力をもらいに修行者が絶えない日本第一の山岳修験霊場だった、その地が今、かつての力を急速に失っていることを今回の旅で知りました。

 今回訪れた南紀のこと、感じたこと、あたらな発見、ブログをいつも読んでくださる皆様にお伝えしたいこと、お話ししたいことは山ほどあります。すべてをここで著わすことは叶いませんが、2回に分けて少し、旅の報告をさせていただきたいと思います。

 ここは熊野古道中辺路 途中。幾重にも重なる山間の道は、周囲の自然環境を大切に配慮しながら営まれてきた暮らしが今もなお垣間見られます。

 山間地に刻まれたかつての名残の地形は美しく、この地の永遠の風景の中に違和感なく溶け込みます。
 山間部での暮らしを成り立たせるため、先人によって傾斜地に無理なく土地が刻まれています。
 無理に土地を刻めば大地を円滑に潤す水と空気の流れを妨げてしまい、土地はまたたくまに生産力を減じ、そして崩壊する、かといって土地に対して何の造作もしなければ、ここでの豊かな自給的暮らしは細るばかりで成り立たない、その狭間で人は大地と対話し、自然環境と折り合いをつけ、数百年の時を超えて風雨に持ちこたえうる、そんな土地の造成を成り立たせてきたのでしょう。
 
 永遠の美しさは、智慧を持って土地を刻んできた、こうしたかつての営みの名残に見慣れます。これこそが無意識のうちにも、人の大切な愛郷心を育んできたことでしょう。
 こうした場所に静かにたたずみ、心癒されぬ人などいるものだろうか、いるとすればそれは、騒がしい雑念の中で、心の奥底からの声に耳を澄ませるという、人の安らぎの本質を忘れてしまっただけなのだろうと思うのです。

 土地を刻み、出てきた石を積んで田畑を広げる。山間地に平坦部分を作れば作るほど、土中の空気が抜けやすい段丘が生み出されます。直角に近く切り立った石積みの隙間から空気が抜けて土壌環境が育ってゆくにつれて、人にとっても、またその土地の生態系にとっても、生産性の高い土地が育ってゆくのです。

 ここは日本有数の降雨量を誇る、昔からの台風銀座というべき南紀の山間部。そこで土地を保ち豊かな暮らしを成立させるためには、それ相応の造作の工夫が必要になります。

 安定感のある石垣にはつるや下草の根がはびこり、とても安定した風景に安心感すら感じさせられます。
 石の隙間から土地は呼吸し、そしてその地のあらゆるいのちにとって無理のない光景を感じさせてくれることこそが、この安心感をもたらしてくれるように感じます。

 集落に大切に守られてきた防風の木々、それ程古い植樹ではありませんが、木々は先端まで精気にあふれて健全な状態が保たれている、今や、そんな健全に近い樹林を見ることの方が少なくなりましたが、こんな場所に立ち会うことで力を分け与えてもらえるせいか、体は見違えるほど軽くなります。

 参詣道の古い石畳は、ごつごつした見た目とは裏腹に、歩きやすく、先人による絶妙な配慮が感じられます。
 造園の仕事で日常的に石畳を配する者として、こうした古道の歩きやすさと安定感には脱帽し、心底から畏れ入ってしまいます。

 決して平たんに据えられた石畳ではなく、むしろ荒々しく、ごつごつとした見た目でありながら、そこを歩けば足の底から五感が刺激されて頭は透き通り、細胞が活気づく、それが蘇生の道と言われるゆえんでもあり、またかつての人の、今とは比ぶべくもない精神性の高さが生み出した、人間の道たる何かを感じさせてくれます。

 こうした道、こうした人間の魂を高めるほどにいのちの宿る、そんな石畳を作ることがいかに、現代離れした高尚至極の業であるということは、先人にはるか及ばぬ不肖の作庭者である私にはよく分かります。

 これは古道途中の、最近整備された石畳道です。古道の雰囲気を損なわないように作ろうとした形跡は感じますが、これが実に歩きにくく、疲れるのです。そして見た目の安定感も当然感じられません。
 セメントで固定された石はクッションも効かずに足になじまず、そしてこの道の造作によって土が締まり、周囲の地表も不安定化して、木々下草の根が後退していることも分かります。
 似て非なるものとはこうしたことを言うのでしょう。
 心清き先人の素晴らしい業がすぐそばで見られるというのに、そこから何も学ぶことができないのも人の真実の一つなのかもしれません。

 学ぶということにプライドは要りません。学ぶ喜び、知らないことに満ち溢れる世界へのワクワク感、そしてそれを学んだ時に迷わず、正しい方向へと軌道修正する魂の姿勢こそが、人間に必要なことだと感じます。
 そんなことを分かっているようでも、その場に直面してそうできないのが人間の弱さというものです。自分自身そうした、弱く不明な人間であるということを忘れず、自然の真実に向かい合い、そしてなお、負けないことが大切なのかもしれないと、そんなことを考えます。

  そして古い石畳には樹木の根が入り込み、これがまた蹴上げとなって石畳を補強し、道を安定させます。ここもまた歩きやすく、木々がこの道を守ろうとしているかのようです。
 今ここでは、木々は人の通行を許容し、共存できている様子が、見た目にも、そしてこの場所の空気感や草木の表情からも分かります。
 しかしながら、これが何らかの原因で無理が生じ、木々にとってこの道の存在が好ましいものでなくなった時、、根は持ち上がり、とげとげしく人の通行を邪魔し始めるのです。
 そんな事例は無理につくられた登山道などでよく見受けられます。そうした場所は、雨が降ると瞬く間に泥水が流れてさらに環境を痛めてしまう、そんな場所が多いようです。

 安定した山道、それは、道に降り注ぐ雨水がきちんと大地に潜り込んで、山域全体の水脈の動きと一体化させてゆくことが、数百年と崩れることのない道つくりの絶対条件ではないかと思います。
 かつての安定した山道を巡るにつけて、水と空気の流れに対する絶妙な配慮に、いつも心が高ぶります。
傾斜地の石畳は決して傾斜角に対して平行には据えられておらず、むしろ階段のように一つ一つの石が蹴上げのように、ごつごつ座っています。それも、常に平らな面を出しているわけでもなく、それていて歩きやすいのです。

 まるで、安定した上流部の川底のようです。降り注いだ雨は多くは浸み込み、大雨の際に浸み込みきれない分は表層を流れながらも、一つ一つの石にぶつかって勢いが弱められ、大地を削ることなく等速で流れます。
 そして、山側、谷川にまた、川底のような表情をした横溝に表層水が集まるとともに、路面にしみ込んだ水もこの溝に側面から浸みだし、そしてまた地中に潜り込みます。

 石畳み両脇の溝は、木々の根と大小の石が絡み合い、大雨でも泥水が流亡することなく、ここから様々な空隙を通して土中にしみ込んでいきます。だから、安定した場所では地表が水に削られた跡はほとんど見られないのです。
 この状態こそ、この道が自然との一体化の中での安定した姿であり、これを自然は長年の風雨から守るように働くのです。それはすなわち、この道の存在が自然界の営みにプラスの形で寄与するのですから、自然はそれを永続的に守り取り込もうとするのです。水路に絡み合った太根と細根の存在が、そのプロセスの一端を明かします。

 自然と人との共同作業によって作られた道は二つとして同じ表情はなく、実に豊かで見ていても飽きることがありません。

 こうした、自然の力を借りて参詣道を未来永劫に保とうとした先人の智慧に、我々は今こそ学ばねばなりません。

 石畳で有名な熊野古道は、連続した道ではなく、断続的に残った道を近年整備して繋いでいるのですが、ここも新たに最近整備された道です。
 石は用いず、さりげなく山道の雰囲気を壊さぬように配慮されているのですが、しかしこれも本質的な部分で間違った整備と言えるでしょう。

 セメントや石を用いず、歩く人の脚にやさしいようにと、真砂土を締め固め、そして有機的な丸太で横断面、側面に表層水の道を配しており、一見、古道の機能性に学んだ施工のように見えますが、中身はまるで違うのです。

 こんな傾斜の山道で路面に砂地を用いれば流亡します。

 実際、路面にはすでに地表流によって削られ、真砂土が流亡し続けている様子がうかがえます。
 川でも、上流や滝などの水のエネルギーが高い個所では砂も土も流されて岩と礫ばかりとなる、そんな場所の路面が粒子の細かい土や砂では、なかなか安定しないのです。

 表層を水が流れる度、地表の微細な通気孔は泥詰りして硬化し、さらに浸透性を落としてしまい、流出する泥水は増えるという、厄介な悪循環が始まります。

 そして、雨の度に流れるその表層の泥水を逃がすため、溝を横断させて斜面谷側に誘導しています。溝の底は、泥が流れて表面に膜のような硬化土層が生じています。この道から雨の度にに流出する泥水の量はは相当なものであることが推測できます。そして厄介なことは、この道が自然の作用によっていずれリセットされるように崩壊するまで、泥水流亡の悪循環は収まらないということです。

 これによって周辺の山は徐々に荒れて、そしてやがて大地を支える力を失い、崩壊の原因にすらなるのです。

 かつての人為的な排水溝は、植物の力を借りて地面に浸み込みやすい状態を作って表層に泥水を走らせるようなことはしなかった、それをしてしまえば長年の道として保たれないということが分かりきっていたのでしょう。
 そこが今の、「道の表面を流れる水だけ消してしまえば後はどうでもよい」という、本質を見失った浅はかで、環境を傷めるばかりの現代の土木技術とはまるで異なるのです。

 もちろん、この世界遺産ともなった参詣道において、誰もこの貴重な環境を壊そうとしてやっているのではないのです。しかし、良かれと思ってやっていることが実はすべて、この地の環境に対してマイナスをもたらしているのです。
 その悪循環の根底にあるのは、水と空気の流れこそが環境を息づかせて安定させているという、大切な視点の欠如なのです。
 これからの時代、現代の技術が置き去りにしてしまった、そんな大切な視点を再び取り戻すことに力を注がねばなりません。

 中腹の山道は、基本的に等高線に沿って、尾根や谷を巻くように道が続きます。必然、谷筋を道は渡ります。写真左から谷のラインは伸びています。
 谷筋の土中には周囲の斜面から水脈が集まり、水と空気が大量に動く場所、人間で言えば大動脈と言えるでしょう。
 地形造作の際、最も崩れやすいのも谷筋であり、これを停滞させてしまえば瞬く間に流域上部にいたるまで、森の精気が失われる上、崩壊の起こりやすい状態を招きます。

かつての山道で谷筋に道を廻す際によくおこなわれていた方法ですが、井桁状に丸太を組みあげてそこに路面の踏圧を受け、谷部の地面が圧密されない配慮が施されます。そして井桁の間に石や礫を絡ませて、谷底の水の動きを妨げることなく、土中深部へ誘導されるように配慮されているのです。
 そして、水や空気が抜ける丸太組みはやがて周辺から草木の根が絡み合い、そして同時に丸太は徐々に土へと帰していき、谷筋はあたらに作られた道の地形で安定してゆくのです。
 安定してしまえば、表層に水が流れた形跡は全くなくなります、どんな豪雨にでも円滑にこの谷筋の水脈へと水が浸みこんでいることが分かります。
 本来の健康な状態の山中では、自律的にそうした状態が作られるもので、それが何らかの原因で錯乱が生じた時、本来の円滑な浸透機能を消失して、そして木々は痛み、、表層は荒れて土壌が流亡し、それが土砂崩れや水害へと繋がることもあるのです。

 そして、谷部分の道の山側は、元の地表の下がえぐられて、表土がオーバーハングした状態で安定しています。苔や下草の表情から、ここも表面流の形跡はありません。
 観光客も増えて道が踏み固められるに従い、上部も若干それまでに比べて空気の停滞が起こります。すると、下層から樹木根が後退して、切土面の下方が少し崩れます。こうした光景は道沿いによく見られますが、山はこの小規模な崩れによって新たな空気の通り道が確保され、そして安定していきます。
 だから、こんなオーバーハング状態が山道沿いでよく見られますが、落ち葉や下草に守られた笠によって、崩壊面に雨が当たらず、これ以上の崩壊が進行することなくやがて苔むして、新たな表土が形成されて根が張り、この道を自然は受け入れて守ろうとするのです。

 ほんの少し前までは、こうした土中の水に対する配慮が当たり前のようになされていたのです。
 これからの土木技術は、こうした自然を味方につけるあり方、その重要性を再び認識し、取り入れることこそが、安全でいのち息づく豊かな国土を再生し、未来の子供たちに繋いでゆくために必要不可欠なことと確信します。

 一方で、急斜面に車道を通し、谷部の巻道部分にもコンクリート土留めによって土中の水と空気の動きを滞らせてしまった場所はいつまでも安定せず、人工による表面的な緑化もまったく意味を成しません。

これを大きな力で抑え込もうと、山を治める「治山」と称して、砂防ダムが配され、これによって土中の水と空気だけでなく、谷筋を流れる清浄な風も滞り、、その周辺の木々は劣化し、小さな地すべりを繰り返して倒木します。

 その結果、ますます谷は不安定化して地形を保つことができず、表層にとどまることなく深層からの大規模崩壊を招くのです。崩壊は大小の水脈沿いに起こります。
この大規模崩壊のあと、次々にコンクリート砂防ダムがつくられますが、一向に安定することはありません。あたらな治山工事よって山は広範囲に荒れて支えきれず、そしてまた新たな崩壊が周辺で多発してゆくのです。

 写真左箇所のコンクリートのり面工事は、平成23年の紀伊半島大水害の際に崩落し、そしてそこが固められたものです。
 これによって土は本来の透水貯水機能を失って乾き、木々の根は衰退し、そしてまた隣の箇所が崩落します。ここも実は、2度目の崩落で、一度は法面保護工がなされたのにまた、同じ個所が崩落したのです。(右側土砂崩壊部分)
 自然の摂理を顧みずに大きな力で抑え込もうとする、今の土木・建設造作の先には命を養う力を失った殺伐たる国土しかないのです。

紀伊半島の参詣道が世界遺産に登録されて以来、この険しく、起伏に富む豊かな土地に次々に新たな車道が整備されていきました。新たな道はますます強引に、大規模に自然環境を破壊しながら無機質に。地形を無視してつくられます。
 この新たに整備された国道、正面の尾根を大規模に削って、そしてコンクリートで留める。これがかつての日本人の魂の故郷へ続く祈りのための参詣道としてあるべき姿なのでしょうか。

そして、尾根を削った膨大な土で大規模に谷を埋めて大型重機で締固め、そしてその表面に、コンクリート水路を配す。世界遺産に通じる山間の一本の道の通行性のために、周辺環境の大規模な破壊が正当化される、こんなことが許される日本とは、一体どんな国なのでしょう。

 世界遺産という、ただ一点を、しかも現在たった今だけの経済的な観光資源として利用して、そして周辺環境に配慮せずに平気で悪化させる、いつの間にこの国はそんなことが平気で行われるようになってしまったのでしょうか。
 そんな人間、自分もそんな人間という生き物の一人であるということが恥ずかしく、そして許せない想いに憤りを抑えることができなくなります。

 100m近くも谷が埋められて、もうこの谷は空気も流れない死の世界となります。
そしてまた、いずれはここが崩れるばかりでなく、上流流域全体の森が衰弱し、弱体化し、新たな土砂崩壊を多発させることでしょう。

 新設道路沿い、残土は無造作に山に放られ、周辺木々は倒れ、枯れていく、そんな光景が新設の国道沿いに当たり前のように広がります。
 これを誰が許せるというのでしょう。

 今、日本はおそらく、最悪の時を迎えていること、こうした工事やその後の環境劣化を目の当たりにして、震え上がる憤りが収まりません。

 仕事もたくさん詰まっていますが、こんな現状を放置できないのです。

見たくない、この場から逃げ出したい、旅の途中、何度そう思ったことでしょう。しかし、逃げてはいけない。木々や自然環境が助けを求めているのだから。これに気付いた一人として、きちんと戦っていかねばならない、そんな役割が新たにのしかかってきたことを実感させられた旅となりました。

 大地の苦しみ、木々の苦しみ、そんなことに気付かなければ、楽しく旅もできて幸せだっだかもしれないと、何度となくそんなことを考えました。最近の日本、今はどこに行っても、木々やいのちの苦しみばかりがのしかかり、つぶされそうになります。でも、これが人としての贖罪です。温かないのちと共に歩んで、そして苦しみを分かち合えればそれがせめてもの罪滅ぼしで、そのために今、できることを速力を上げて臨んでいこうと、そんな力も湧きおこります。

きっと、南方熊楠も、同じ気持ちで戦ったことでしょう。

 こんな光景ばかりを1週間以上も追いかけてきた後、熊楠によって守られた野中の一方杉を見たもので、あの時、初めて慰めが与えられたような安らぎを感じ、涙が止まらなくなったのでした。

 第2部は、もう少し明るさの見える報告をしたいと思います。年始早々にこの長文にお付き合いくださった方、心からお礼申し上げます。
 本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

株式会社高田造園設計事務所様

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