庭・街・風景に思う

明治神宮の森にて      平成23年2月27日

 師匠の次男の結婚式参列のため都内を訪れたついでに、明治神宮の森に足を運びました。

 常緑広葉樹主体のこの森の造営は、今からちょうど100年前の明治天皇崩御にさかのぼります。
 そして、この森の植栽が終了したのが大正9年(1920年)のことですから、森の造営後、90年の年月が経過したことになります。
 高木層には、東京本来の自然林の高木層構成樹種である、シイ、カシ、クスといった常緑広葉樹が優先し、そこにサワラやマツなどの針葉樹、ケヤキやハリギリなどの落葉広葉樹が混在しています。

 大正時代初期、驚くほど先進的な鎮守の森の造営計画によって、本来の東京の風土に適した自然に近いこの森がここに今、実現しているのです。
 まさに、百年の計というべき、素晴らしい先見性のたまものです。
 この森を造営する際の基本方針は、常に大木が鬱蒼とし、人の手による植林ではなく、天然の更新によって永久に繁茂する森を育てるというものであったようです。つまり、ここに永遠の森を造ろうとしたのです。
 今、この森は自然の力関係にしたがって移り変わり、そして今も東京の風土本来の自然の森へと近づき続けています。

 明治神宮御苑にて。
 大正時代、東京に新たな鎮守の森がここに造られました。

 この森の計画を主導したのは、明治期に近代日本で初めての都市公園である日比谷公園を設計した、本多静六林学博士でした。
 本多博士は、当時としては信じがたい程の先見の明を持った、稀代の林学者でした。
 この土地本来の常緑広葉樹林を造ろうとされた本多博士の提案に反対したのが、当時の内務大臣、大隈重信でした。ひらすら西欧諸国の文明を取り入れようとした大隈は、西欧庭園のように整然とした、杉などの針葉樹をこの森の主木とすることを主張したのです。
 これに対して本多博士は、東京の地の気候風土や生態学的観点から、杉などの常緑針葉樹では、この地においての永遠の森は作れないということを論理的かつ根気よく説明され、そしてここに永遠の森が誕生したのです。

 本多博士の先見性を考える時、私は彼が、当時東京の自然林の多くを占めていた、落葉広葉樹主体の武蔵野の雑木林ではなくて、この土地本来の自然林である常緑広葉樹の森を最終形として計画されたことに、大変な驚きと敬意を覚えます。
 落葉広葉樹主体の雑木林は、東京では人との関わりによって初めて維持される森であって、人の手を離れて永遠にその姿を保つものではありません。
 100年後、200年後の森の姿を見据えて、風土本来の森をここに造ろうとされたことは、世界的にも大変貴重な、まさに快挙ではないかと思います。
 
 100年近くも前に、このような素晴らしい都市緑地計画がなされたにも関わらず、今の都市緑地計画の多くは、生態学的な視点もなければ、「人の手をあまりかけずとも良好に維持される緑」という考え方もありません。
 100年間、都市緑化に関しては全く進歩していないどころか、退化の果てのあげく、それで安住してしまったというのが現実のように思います。

 さて、これからは自然と人間の共生、本来の自然といった大局に立って、自然を拒絶しない永続的な都市計画を確立していかねばなりません。
 こうした時代のニーズに答えられる造園が育たねばなりません。私自身、その一角を担うことができるよう、さらに努力を重ねなければと思います。
 
 明治神宮の森、志を新たにさせられたひと時でした。

 
 
 
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