吉野山 吉水神社にて 平成22年10月31日
10月28日の吉野詣で報告の続きです。
冷たい雨の中、蔵王堂からさらに奥へと歩き、暗くなる頃に吉水神社に入りました。山中にひっそりと佇む、とても静かな世界遺産です。
吉水神社は、明治の神仏分離令以前までは吉水院と称していました。吉水院は今からおよそ1300年前、役の行者による修験道成立の頃からの僧坊だったようです。
清らかな山中の僧坊の空気を今に伝えながらも、この地は時代の節目節目に、心ならずも時代を左右する大きな政争の中心に出てくるという、数奇な場所でもありました。
吉水神社の中、ここは日本最古の書院の間と言われます。平安時代末期の遺構のようです。
現代の日本家屋の原点がこの書院の間と言えるでしょう。
柱の四隅は大きく面取りされて、八角形に近く、竿縁天井の天井板は槍鉋(やりがんな)という古式のカンナにて仕上げられています。
大きな床の間と、床框(とこかまち)の高さ、床柱(とこばしら)として特別な柱とされる以前の床の見切り柱、違い棚、天袋、框上の上段の書院、そしてその上の掛け込み天井、いわゆる書院としての形式の原形があり、そして形式化される以前の姿がここにありました。
素朴でなぜか懐かしく、自分が日本人であることを実感します。
そしてここは、源義経が静御前とともに、兄頼朝の追捕から逃れて潜居した間ともいわれます。
義経がこの地に逃げ込んできた際、吉野の人たちは、この悲劇の若き英雄を迎え入れ、暖かくかくまったようです。
しかしながら、時代を掌握した頼朝の圧力には抗しがたく、この地に暮らす人たちを戦火から守るために、義経を追討する姿勢を見せねばならない状況に追い込まれていったようです。
こうした空気を察した義経は、吉野の人たちに迷惑をかけられないと悟り、吉野を去ります。
そして、吉野山の修験者の一人が、義経追討の姿勢を表すために、義経の家来と一騎打ちして敗れ、息絶えます。
今もその地には、吉野の里を戦火から救い、同時に義経に同情して、逃がすための犠牲となるべく一騎打ちを挑んだこの修験者の供養塔がひそかに安置されています。
時代の波が押し寄せる戦乱の世に翻弄されながらも、そんな時の渦中にあって、故郷吉野の人々の平和のために、自ら命を差し出した無名の山伏の思いが、切なく美しくしのばれます。
ここは、鎌倉幕府を倒した後、王政復古に失敗して逃れてきた後醍醐天皇の玉座です。
足利尊氏との確執により、吉野に逃れた後醍醐天皇は、この地を南朝の行宮と定めました。
ここに南北朝時代が始まったのです。
さびしい山中の小さな僧坊を仮の皇居として過ごした後醍醐天皇の数年間、その悲哀を想像するにつけて、この地を訪れる人の心に哀感の念が湧き起こることでしょう。
吉野神社の境内、京の方角に向けて侘しげな門が佇んでいました。北闕門と呼ばれます。
後醍醐天皇はいずれ京の都に凱旋する時を夢見て、都のある北面に向けて、凱旋の願いを込めてここに門をつくったようです。
武家社会のど真ん中の時代にあって、王政復古を志した後醍醐天皇の夢はこの地で潰えました。
寂しく佇む北闕門。それは無言ながらも、はかない人生の感慨を、無常感を持って語りかけてくるようです。
人は多くの場合、志半ばで潰えてゆくものなのかもしれません。南朝の遺構はそうした真実を語り続けているようです。
はかなく過ぎ去る自分の時間、そして迫りくる終わりの時、 それは誰しも平等に与えられ、そこから逃れることはできません。
例え志半ばで終わりの時を迎えても、人として生きてきた輝きを胸に、それをまっすぐに受け入れるだけの心構えを築いていきたいと思います。
覚悟してよく死ぬことを大往生と言います。「往生際が悪いぞ」と言われることのない、そんな生を全うし、そして悔いなく消えてくことができるよう、今を確かに生き抜きたいものです。