亡父のこと 平成23年3月22日
父が永眠してから、もうすぐ1カ月が経とうとしている。
大震災の混乱の中、亡父を思うゆとりをなくしていたような気がするが、今、少し冷静になると、子供の頃の家族のことに、想いを馳せている自分に気づく。
古いアルバムを開く。自分が生まれたばかりの頃の1ページ目の写真。
私の生涯に思いを託す、母が気に入った文言が、アルバムの1ページ目に貼られている。
「我が子に思う
我が子を育てる。
かわゆくて、しかたがない。
この子の一生が
しあわせになってほしい。
そして、欲を言えば
『自分だけのことを考える人間ではなく
まわりの人をしあわせにできるような、
立派な人間になってほしい』
と、願いをこめることは
できないものだろうか。」
純粋な母の想いは、この文言に母の生き方考え方の全てが象徴されているように思う。
私が親族のパッシングを退けて造園修行に励んでいた頃、母から届いた手紙の言葉が、今も忘れられない。
「あなたは庭をつくるゆとりのある、お金持ちのために仕事をしているのですか。それがあなたの道ですか。世の中の全ての人のためにあなたには生きて欲しい。」
母は当時、造園職人を志した私の生き方を理解できなかったと思う。それも仕方ないことと思う。そういう時期もある。当時20代前半の私は、自分を認めない母に腹を立て、返事も書かなかったように思う。
「俺は決して、自分だけのために生きているんじゃないんだ。自分なりに命を燃やして生きようとしているんだ。」
母に認められたい、分かってもらいたい、そんな想いが私の庭つくりの大きなモチベーションになったと思う。
そして私も、真偽はともかく少しばかりは世に認められたようで、海外からのオファーを頂いたり、メディアに載せていただいたりするようになった。
掲載された本やDVDを母に見せると、いつも母は言う。
「あまり名を出さないで。世の中にちやほやされても、いくら売れても、そんなの関係ないんだから。あなたはあなた。調子にのっちゃだめだよ。」
いかにも母らしい。でも、母は私の生き方をようやく理解してくれている。ここまで長い時間がかかった。
親に反発した月日、自分の生き方をひたすら探し求めていた若い頃、母の考えを否定しつつ、否定しきれない部分があって、そしていつか母に誇りに思ってもらえる自分になることが、私の生きるモチベーションとなってきたと思う。
そして父は、造園職人を志した私の生き方を何も言わずに見守ってくれた。父を含め、父の兄弟には医師が多く、そしてその子、私の従弟たちも医師が多い。
当然、長男である私には、医師になるべく親族の期待がのしかかっていたのを子供心に感じていた。
私はそれが嫌だった。自分は何のために生きているのか、何をするために生きているのか、本当に自分がやりたいことは何なのか。
そして私は23歳の時、遍歴の末に造園の道を選んだ。
当然のごとく、当時の父方の親族の多くは私を理解しなかった。「親が立派だと息子は大抵だめなんだよな。」と、叔父に面前と言われたこともあった。
そんな中、父だけはいつも私を信じようとしてくれた。
「人に迷惑かけずに自分の生き方を決めてしっかりと生きていて、それで何が悪いんだ。おまえはおまえでいいんだ。」
父はいつもそう言ってくれた。
父のこと、私はとても誇りに思う。
父は、小児癌の治療や研究分野で実績を上げ、骨肉腫などの治療の最先端医療に従事していた。
私が大学時代のこと、父は安泰な立場を捨てて、末期がん患者の終末期医療施設であるホスピスを開業すべく、準備を始めた。
20年前のことである。末期がん患者に向き合ってきた父は、開業の決意を私に語ってくれた。
「日本はな、助からない患者を苦しめてでも、一分一秒でも患者を生きながらえさせることが医師の名誉とされるんだ。それが今の日本の当たり前の医療となっている。
俺はそれは違うと思う。助からない患者を、医師の名誉のために苦しめてどうなる。
末期がんの患者が自分の死を受け入れて後悔しない死に方を本人に選ばせてあげる、そのために苦しみをできる限り取り除いてあげること、患者本人や家族の立場になって本当によい終末期医療とは何か、それを考えることが日本の医療に必要だ。」
そして父は、当時民間の病院として日本で初めてとなる終末期医療施設ホスピスを開業しました。
開業にあたり、父はこれまでのガンセンター勤務時代に亡くなった患者さんの遺族の元に足を運び、焼香にあがりました。北海道から沖縄まで、それこそ全国行脚の旅となりました。
新たな医療を確立する、そんな父の決意がその行為に現れているように感じます。
亡父の通夜の際、父とは数十年来の友人であった方が、私にこんなことを話してくれました。
「僕がね、高田先生に一生ついていこうと思ったのはね、25年くらい前のことだったかなあ。
夜中の1時くらいに高田先生から電話があったんだよ。『今栄町の○○で飲んでいるからおまえも来い。』って言うんでね。すぐに行ったよ。そしたら先生、べろんべろんに酔っぱらっていてね、僕に言うんだよ。『おまえ、今俺が一番欲しいものが何か、分かるか?。』
いきなりそんなこと言われても分からないからさ、月並みなことを答えたのさ。
そしたら高田先生が『馬鹿野郎、ちがう。俺はな、今、足が欲しいんだ。今日も手術で癌の子の足を切ってきた。自分の足を切るよりつらいぞ。ああ、足がたくさん欲しい。あの子たちに代わりの足をつけてあげたいんだよ。』って泣くんだよ。
あの時の高田先生を見てね、僕は一生この人についていこうと思ったね。」
父をよく知っている私にとって、ああ父らしいな、というのがその時の感想だった。
父はそんな人間だった。
葬儀には、たくさんの義足の人たちが参列して下さって、そして涙を流してくれました。皆、通夜だけでなく告別式まで参加下さり、そして棺のお別れの時まで、涙ながらに花を添えて下さいました。
今、何を話しても何を書いても、父自慢に受け取られるかもしれない。でも、それでも父の生き方を、私はしっかりと自分の胸に刻み、そして自分の生き方で伝えていければと思う。
愚息ながら、自分の父の大きさくらいは分かる気がする。